東陽英朝禅師語録「少林寺無孔笛」における岐阜・岐阜山岐阜

徳林寺演題ボード前21

美濃源氏フォーラム土岐氏研究講座に岩村宗康氏が登壇!

「東陽英朝禅師録『少林無孔笛』における岐阜・岐山・岐陽」にて、15世紀末に「岐阜・岐山・岐陽」が書かれた時の場所と状況を解説!!

東陽禅師が生まれた八百津から始まり、鵜沼の大安寺そして各務原の少林寺に岐阜市の定恵寺や瑞龍寺に正法寺、そして揖斐の安国寺等、岐蘇川の北側に連なって拡がる「岐山」、そしてなだらかな山を指す「岐阜」は陰陽の使い分けでもあり漢詩には欠かせぬ対比の言葉、その「岐山と岐阜の陽」の考え方は流石に五山文学研究者しか解明出来ない仕事でした!!!

結語として、元々岐蘇川の北側の陽として使い始め後に、「岐山・岐阜の陽」となっていった!!!!

百年後に美濃来た織田信長は、これ等の意味を理解していた禅僧から進言を受けたが、伊勢守護土岐持頼の子息であった偉大な禅僧東陽英朝の遺志を継いだ事になった!!!!!

だから、当然東陽英朝禅師は中国の曲阜についても岐山の陽についても理解していたはずであり、「応仁の乱」で全てが燃えてしまった都が何時復興されるか分からない中で美濃の地に「曲阜」そして「岐山」の考え方を想起して「岐阜・岐山・岐陽」を読んだはずである。

何せ、足利将軍室町幕府の権力に正面から屹立している美濃守護土岐成頼と守護代斎藤妙椿のお膝元「美濃」であった訳である。

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