2009/07/20 第2回土岐頼芸シンポジウム大盛況

題名:土岐頼芸シンポジウム大盛況  名前:澤源 2009/07/20(月) 09:51

昨日は、梅雨明けもしていないぐずついた天候にも関わらず、谷汲の岐礼と長瀬まで96名の方々に御参加賜りまして、大盛況のうちに幕を閉じる事が出来ました。

午前10時に集合後、土岐頼芸の墳墓に参詣し、続いて菩提寺の法雲寺にも行きました。前半だけでも42が土岐頼芸をお慰め致しましたが、私も瑞浪の造り酒屋の若葉で仕込んでいる「青春美濃源氏」を持参し、頼んであった「鮎の塩焼き」と一緒に献上し、酒は鱈腹召し上がって頂きました。
午後からは、日本家系図学会会長の宝賀寿男先生によります基調講演「土岐頼芸をめぐる人間関係」を45分聴講し、休憩後は【土岐頼芸にも、もっと陽をあてよう】をテーマとしてシンポジウムを開催しました。

澤源がコーディネーターを務めましたが、宝賀寿男先生にもパネリストに入って頂き、その他忠臣山本数馬子孫の山本盛美氏と池田町禅蔵寺住職の土岐正道氏、織田信長家臣団研究会会員で岐阜県歴史資料館職員の吉田義治氏、最後に歴史伝承フォーラム事務局の林正啓氏で行いましたが、終了予定を30分遅らせるほど活発な意見が飛び出しました。

まず最初に、土岐頼芸に対する思いと現代人に例えると誰になるかを聞きました。
続いて、土岐頼芸の呼び名について聞きまして、最近の研究成果から“よりのり”に統一しようとの話しに展開させるはずが、地元谷汲では岐阜県教育委員会の指導により五年前に“よりあき”を使い始めた事の発表があり、今後の研究を進める事にしました。
その後、山本数馬子孫の盛美さんからは先祖から伝え聞いてきた話しの中で、特に斎藤道三に終われた後先ずは揖斐のお寺に鷹の絵を持参し匿わられ、その後に越前から始まる逃避行になったと発言がありました。
土岐の鷹絵になりましたので、禅蔵寺住職の土岐正道さんから「土岐の鷹絵の解説」があり、頼芸の芸術文化性を話し合いました。
そして、禅蔵寺には頼芸より三代前の持益の墓があり、頼持から始まる家督継承争いについて意見が続出しました。

まず宝賀さんからは、持益の子となる成頼の系統は諸説紛々なれど系図学的には光俊の更木氏であろうと力説。
また、林さんからは頼芸の兄である盛頼・政頼・頼武・頼純は同一人物として、岐阜県の県史見解に真っ向から異を唱えられました。
ついては、吉田さんはその岐阜県の資料集めと保存の一番の関係者ですから、今後の研究活動に活かしていきたいとの感想を貰えました。
そして、逆に流浪した土岐頼芸が見た30年の戦国時代を頼芸になったつもりで各パネリストに語って頂きましたが、宝賀さんからは“この切り口は面白いよ”と言われましたので大感激でして、参加者に終了を遅らせる事を御了解賜り続行した次第です。

皆さんからは、日本の戦国史の謎は、ひょっとすると土岐頼芸が見て回った記録があれば解決できるのではの観点として、岐阜県内の更なる資料発掘と研究を進め、頼芸の芸術文化性からの再調査を進め、日本の系図研究者からも土岐氏だけでは見つけれない情報を提供して貰う必要性が、浮き上がって参りました。
その他、会場からの意見や質問を受付ましたところ、樽見鉄道を守る会の事務局長が発言頂け、今後に土岐頼芸の墓を巡るウォーキングを検討してみたいとの有り難い提言に会場内に来賓でみえていた、地元区長を始めとする20名は嬉しそうに聴いておられました。
私が、まとめとしたのは土岐頼芸から観た戦国時代を「土岐鷹の夢」と言う時代小説にしたいので、本日のシンポジウムの内容と、そして平成15年の第1回土岐頼芸シンポジウムの内容を、共に活かせる場になるのでは、として結ばして頂きました。
朝の7時から夜の7時までの、土岐頼芸シンポジウムの準備と本番と反省会でした。

尚、現在衆議院選挙の準備にも追われており、土曜日からのシンポジウム準備は結局徹夜作業となりましたが、間に合いながら会場へ向かう道中で朝飯購入の為に立ち寄ったコンビニで、エンジンがかからなくなるという大事件もありましたが、見事最終集合時間には間に合うという、まあ最期まで土岐頼芸公に試されもした1日でありました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。